2014/05/13

エゴサの是非

"エゴサ"とは
Wikipedia / エゴサーチ
インターネット上で、自分の本名やハンドルネーム、運営しているサイト名やブログ名で検索して自分自身の評価を確認する行為のことである。

今回は特に「Twitterにおけるエゴサ」のみに関して言及する。
検索エンジンで某匿名掲示板をエゴサした場合は知らん。掲示板とTwitterは似て非なるスペースなので、これから展開するお話はTwitterやblogにしか当てはまらないからだ。

まずここをご覧の皆さんは当然ご承知だろうがTwitterとは何か改めて説明させて頂きたい。
WikipediaによるとTwitterとは「ミニブログ」というカテゴリに属しているそうだ。
要は小さく纏めて時系列を分かり易くしたblogだ。あくまでもblogであって掲示板ではない。

なぜ今回このような記事を書くに至ったのか。まずはこの記事に目を通してもらおう。
わさらーのブログ / Twitterでエゴサしていつも思ってること

左カラムのTwitterCounterを見ればわかるが彼は約13万人ほどのフォロワーを抱えているし、頻度は覚えてないがblogの宣伝をTwitter上でも行っているので当然閲覧者はそこそこ居る。
現に私のタイムラインでも彼や彼がRTしたツイートを除外してもこの件について触れている人が何人か居たし、そういう話題の流れもあった。
で、とあるユーザーとエゴサについてしゃべくっていたところ、参考になったという人が居たので「ならいっちょまとめて記事にでもしますか」といった具合だ。

さて、先にも述べたようにTwitterはblogである。例えるなら出入り自由な私有地だ。
鍵の有無はその私有地を囲う塀や柵があるかどうかといったところか。
なので掲示板などとは違い公共の場ではない。柵も塀も門も無いので外から丸見えではある。だがあくまで私有地だ。
私有地で何をしようが所有者の勝手だ。穴を掘ろうがゲームをしようが友人を招いて酒パをしようが自由にすればいい。
だが外から丸見えな以上、他人から何か言われるリスクは付きまとう。そこで発生するトラブルの始末をつける責任がある。
未成年が酒パなぞしようものなら不特定多数から囲んで棒で叩かれるだろうし、大麻を栽培したり3Dプリンタで殺傷能力を持つ拳銃を作ろうものなら即お縄だ。

という事でまず前提条件から彼は私とは捉え方が違うらしい。
この段階で私の「Twitterは私有地」論が受け入れられないのであれば引き返した方があなたのためだろう。

この例えでいうとTwitterにおける片思いフォローというのは「あなたの私有地が見えるところにライブカメラを設置しますよ」であり、相互フォローは「隣接した私有地に住むお隣さん」なわけである。
ではエゴサは何か。散歩だ。自分の意思でやるわけだから、決して「突然目の前に知らない奴が現れて~」という事態にはならない。
不意の敵意に晒されるとすれば自分がフォローしている人々のRTによるものか、フォロー外からのリプライのいずれかだ。

ここで先の私有地における行動に話を戻す。
記事の彼が挙げた悪口というのがどういったものなのか、実際の文例が示されていないので本人にしかわからない。
とりあえず「Aはキモい」というありふれたものだと仮定しよう。
ここまで使ってきた例えに適用すると「Aはキモい」とTwitterで呟くのは「触れると傷付く尖ったオブジェを私有地に設置する」行為だと言える。
あくまでオブジェな上に私有地内なので法的に縛られる謂れはない。そんな危ないものを人目に晒すなんてと思う人も当然居る。
だがあくまでも私有地内の事なので当人の責任による自由だ。
つまるところ「エゴサで悪口を目にする」というのは散歩していて私有地に足を踏み入れたところオブジェが体に突き刺さったという事だ。痛い。
ここで重要なのは散歩という自由意志による行為の結果傷付いているという点だ。
決して自分の私有地で過ごしていたら知らない誰かがやってきてナイフで刺された、とかではない。

Twitterを利用しているので13歳以上とこれまた仮定するが、齢13にもなれば世の中、ことネットの世界が敵意に満ちている事ぐらい承知の上だろう。その上でその棘に飛び込む行為とも言えるエゴサをしているのだから傷付くのもやむなしではないか。
もちろん傷付いたのはあなたなのだから、土地の所有者にオブジェの撤去を要求する権利はある。それを主張するのは悪なんかではないし咎められたものではない。
だが傍から見るとどうだろうか。自分からその"危ないオブジェ"に近づいて刺さった人が血まみれでその持ち主に文句を言うのだ。
私からするとみっともない光景に他ならない。
「Aはキモい」という事例について、発言者に当事者が文句を言うのは勝手だが、そこに強制力は無いし、発言者が撤回しなければならない義理も無い。加えて外から見ればその行為はダサいぞと。
それだけだ。
これが「Aは~~(不法行為)をしたから酷い奴だ」(真偽は別)となるとまた名誉棄損の民事訴訟だとかそういう話になってくるので除外する。
私は法のエキスパートではないし、そのタマゴでもないので言及もしない。
とにかく正義と悪などという二元論で語れるほどコミュニケーションというものは単純な事象ではないのだ。
道徳の話がしたければもっと単純なモデルケースを用意した方が良い。


発言には責任が伴います」とは彼の言葉だが、自由意志で行うエゴサにも当然同じことがいえる。
そもそもあなたにとってエゴサは必要な行為なのか。
仮にあなたがクリエイターで、その創造物が生み出す対価によって収入を得ているならば大衆の評判を調査し、利潤の最大化を図るためにエゴサするのもわかる。
これはプロでなくとも同人活動で少なからず益を得ているのであれば当てはめてよいだろう。
他には企業の経営者などもある種のエゴサの必要性が発生しうるだろう。


さて、ここであなた自身はどうだろう。あなたは表現者か?
まぁ"人間誰しも表現者だ"とはよく言ったものだからそうだとしよう。
ではそれで収入を得ているか?その表現行動は生活に直結するか?

「いえ、ただの趣味です。」

そうか。じゃあ無理にエゴサなんてしなくていいんだ。
その趣味を磨くために荒波に揉まれて表現の質を向上させるのも自由だが、荒波である限り傷付く危険性は分かりきっている。
ほぼ100%傷付くといってもいいだろう。分かりきった危険に飛び込むのだから、そこで傷付いた場合、その責任の一端はあなたにもあるという事をどうか忘れないで欲しい。



これは完全な余談だが、記事内での一人称は統一した方が読者も混乱しないと思う。